人類の歴史を振り返れば,人は常に困惑の中に進歩してきたと言えよう。寒さ故に火を用い,不便さ故に道具を創って生きてきた。しかも,それは単なる一個人の苦悩ではなく,社会的困惑からの脱却を志向したものであった。社会の要請なくして物事が進歩し,発展し,人口に膾炙するなどあり得ないのだ。
会計も,また同じではないか。古代,単式簿記の発生に産声を上げた会計が,大航海時代,世界恐慌,金融ビッグバンという歴史の荒波の中で,六千年の永きにわたって進化を続け,発展し,今日のような社会的地位を築きあげるに至った背景を見れば,会計にはいつの時代にも社会からの要請があり,社会的困惑の解決の一助となるものがあったのではないか。それを考えるとき,会計には「いかに時代が変われども常に社会から愛され,求められる普遍的性質」のようなものが備わっているかのように思われてならない。
本論は,この点に焦点を当てるものである。したがって,単に簿記・会計のみの歴史を追究し,あるいはその年号をいたずらに列挙するのではなく,常にその社会的・歴史的時代背景を含めて考察に入れ,各時代における会計のスタンスや,各時代の社会が会計に対してどのような要請をしていたのか歴史的に解き明かし,百年に一度の大恐慌と言われる今,会計には何が要請され,いかなる変化が求められているのか,考察を加えるものである。
平成21年5月
輝き始めた若葉と晩春の風を感じながら
山内啓示
本論の見方・使い方
註釈について、
・ ローマ数字のi,ii,iiiなど………各章末の脚注の番号に対応。
・ アラビア数字の1,2,3など………各ページ下部の注に対応。
・ 括弧付きの[1],[2],[3]など………巻末の引用文献の参照番号に対応。
※尚,[1],[2],[3]などの番号が付されていない場合,カギ括弧がついていても,引用ではなく,論者が強調を意図して付したものである。また,「私」とは本論の論者を指すものである。
記帳の起源をどこに求めるかは諸説あり,様々な学説が存在するが,本論においては会計と社会との関係に着目する立場から,「社会発展との関係で考察」 [1]するChatfield Michael氏と同様の立場をとり,紀元前四千年頃と定めたい。
それでは,この時代区分について,メソポタミア・エジプト・ギリシャ・ローマの四つに区分して概観していくとしよう。
人類の歴史は,シュメールに始まる。
チグリス川とユーフラテス川の間の地域,今のイラクの辺りはメソポタミアと呼ばれ,さらにそれを三つに区切り,北部はバビロニア,中部はアッシリア[i],そして南部はシュメールと呼ばれる[ii]。
シュメールには世界最古の組織的政府が紀元前五千年頃から存在しており,紀元前三千五百年頃の世界最古の商業帳簿もこの地域から出土している。貨幣もかなり早い段階で誕生していたが,記帳単位は資産毎に異なっていた。紀元前千年頃には少なくとも二行の銀行[iii]が存在し,小切手・受取手形・為替手形による取引が盛んに行われたほか,抵当権や売掛金・買掛金ついての現代と同じ認識が存在していた。出土した計算書からは,単式簿記[iv]しか存在しなかった時代にこれらを管理するために大変な苦労を要したであろうことがうかがい知れる。
数体系も早い段階で存在していた。彼らは,基本的には60を底[v]としつつ,10を底とした数体系を補助的に用いるという複雑なものだった[1]。
紀元前二千年代前半の頃のハムラビ法典[vi]を見ると,現在の財務報告書にあたるものを「超自然的支配者」 [2]に提出することが義務づけられていた他,どんな些細な取引でも契約書を作成しなければ,契約の法的実施を主張できないとされていた。大多数の人々が文盲であったこの時代に,契約書の作成に当たったのが政府の記録官であった。
取引の内容が決まると,それを記録官に話す。すると記録官はそれを粘土の板に針の様なもので記録した。当時の人々は自分の名前を彫った石の札を首から下げて持ち歩いており,それを粘土板に押しつけることで押印とした。粘土板は,重要な取引であれば炉に入れられ,そうでない取引の場合は陽にほされた。また,重大な取引の場合は粘土板が粘土の箱(壊さなければ中が取り出せない)に入れられ,箱の表面に粘土板の複写と押印が書き込まれた。箱を壊さなければ契約書に不正な改変を加えることは出来ず,また箱の表面の記述に改変を加えても,中の契約書と見較べることで見破られた。また,秘密性を有する取引の場合には箱の表面には押印のみがなされた。
さらに,政府の記録官の職務は上記にとどまらず,記帳・徴税も行っていた。当時の人々は「無類の記帳好き」 [3]とも言われ,簿記を用いた組織的な資産管理は社会の隅々にまで浸透していたが,なかでも政府と寺院においては著しいものがあった。物納税や奉納品が納められると,政府の記録官や寺院の資産管理担当者は倉庫に保管するか換金するかを素早く判断し,同時に記帳した。彼らの記帳した帳簿には,政府・寺院の高官による監査・検証の跡がうかがえる。この点については本章の最後でも述べるが,この監査と検証こそが,この時代に会計が社会から受けた要請で無かったかと思われる。
エジプトと言えば,砂漠とピラミッド[vii]ではないだろうか。
古代エジプトに関する研究の多くはピラミッド内部に描かれた絵によって行われているが,容易に想像できる様に,ピラミッドに帳簿が描かれることなどなく,古代の会計に関する史料はメソポタミアと較べてわずかしか出土していない。
エジプトには貨幣がなく,物々交換で成り立っていた。金・銀は存在したものの,それらは他の様々な物と同様に,交換の過程で用いられたに過ぎず,貨幣としての位置づけはなかった。
一方で,彼らの政府はメソポタミアよりはるかに組織的であった。王の直下には高官がおり,その下に王領地・王室・国庫・納税の各部門が設置され,各部門には記録官・記録監督官・記録検閲官・監査役がいた。これらの部門の中でも,国庫部門は特に重要視され,国庫長官の権力は大きかった。国庫は,穀物・銀・黄金・牛など,さらにいくつかの倉庫群に分けられ,各倉庫群には国庫長官に次ぐ位として出納官がいた。出納官は,その倉庫群に属する複数の倉庫の管理を統括し,さらに,それぞれの倉庫には監督官がいた。国庫の各倉庫群の中でも穀物は重視されており,穀物の出納官は国内の農業指導も行っていた。
どんなささいな取引でも,国庫の入出庫には必ず当該監督官の証書を必要とした。監督官には,自分の管理する倉庫の入出庫について,証書の発行に基づき,すべてを記帳することが義務付けられ,記録官にはどんなささいな取引も,複数の記録官により別々に記帳することが義務付けられていた。万一,監督官と記録官の帳簿の内容の差異が生じたり,複数の記録官の帳簿の間で残高が一致しなかったりした場合には,鞭打ちの刑か,重い場合は死刑も免れなかった。この監査の習慣は,メソポタミアから流入したものと推測される。
記録官と監督官のつけた帳簿には,日付・納入者・数量・処理方法が正確かつ詳細に記帳されていた。それらの帳簿は最終的には高官の手によってまとめられ,月ごとに決算が行われた。決算にあたっては,中央政府の決算書を作成するだけでなく,地方の県の決算と連結決算を組むことが求められた。高官の作成した決算書は,穀物の収穫状況報告書とともに王へ差し出され,穀物の収穫状況が好成績であった場合には穀物の出納官は王から褒美を与えられた。
記録官の職務は政府の出納の記録にとどまらなかった。ほとんどの人々が文盲の時代にあって,国中のあらゆる取引の記帳代行も彼らの職務であった。エジプトから出土するこの頃の絵画には,決まって記録官がパピルス紙[viii]に記帳を行う姿が描かれている。
世界は,カオスに始まった。やがて,ガイア・タロタロス・エロスが生まれた。その四人が近親相姦を繰り返す中で,ゼウスが生まれ,彼が世界を統治した。ギリシャ神話[ix]の冒頭のあらすじである。後に,かのサラエボ事件を引き起こすバチカン半島の南端にあって,芸術・文化・文明の花は開いた。
中でも記数法に関しては優れたものがあった。初期の記数法は他の文明と同様のもの[2]であったが,後にこの文明では数を表す膨大な記号が生み出された。彼らはエジプトにならって10を底としていたが,ここで誕生した新記数法では1から10までの記号が創られた他,20,30,40,…,100,200,300,…という記号[x]が用意された。この記数法の優れた点は,大きな数を表現するのに多くの文字を使用せずに済むという点であった。
この国において会計が受けた刺激として治安の悪さがあったことは指摘しなければならない。窃盗・盗難・詐欺などが横行するなかで,自らの資産を保護・管理するために記録・監査が行われた。
やがて,紀元前630年頃から貨幣が誕生し,記帳の単位は係る貨幣に統一された。
この国の政治は,きわめて民主的であった。抽選で選ばれた会計官が記帳を行い,できた帳面は議会に示された。すべての支出は議会の承認を必要とした一方,一度,認められた支出は半永久的に法律で定められることとなった。
メソポタミアからの影響もあってか,銀行は,かなり早い段階で存在していた。手形・小切手・抵当権の他,当座預金までもが存在した。現代のように一つの銀行が全国に支店を持つことはなかったが,自分の取引銀行の発行した支払指示書を持参することで,ある銀行の預金を他の銀行で引出すといったことは可能であった。
公会計・銀行会計においては,帳簿組織の萌芽のようなもの[xi]も見受けられるが,私企業では記帳自体が行われないこともしばしばであった。これは,大多数の人々が文盲の時代にあって,前述したに文明のような記帳代行制度が存在しなかったことに起因すると思われる。
「すべての道はローマに通ず」と言ったのは誰であったろう。ローマの文明は,古代と中世を繋ぐ「道」であった。
ギリシャと地理的に近距離にあったローマの文明は,記数法こそ退化したものの,ギリシャのそれを大きく発展させたものだった。
数体系は5を底とするもので,記数法体系は底の冪乗毎に記号を設けるという,ギリシャの初期段階のものだった。現代の所謂ローマ数字である。
政治的には歴史は浅く,B.C.753に王制国家[xii]として成立,その後,共和制[xiii]・帝政[xiv]へと移行した。エジプト・ギリシャを植民地化しながら拡大を続け,286年に東西に分裂。西ローマ帝国は480年に滅亡したが,東ローマ帝国は1453年まで存続した。
政府の資産管理法はエジプトに似たものがあり,倉庫の管理官と複数の財務官が別々に付けた帳簿を監査官がチェックし,一致していることを確認していた。
財政は,初めは元老院・戸口調査官・財務官が分権していたが,侵略戦争への経費を捻出する目的から,帝政への移行と共に中央集権化した。
銀行は,ギリシャのそれと同じく,小切手・手形・当座預金・抵当権・支払指示書といったものをもっていた。また,口座を作成した顧客毎に名宛勘定を作成するとともに,債務者が分割返済をする場合には得意先元帳のようなものを作成して管理していた。
ローマが他の文明と大きく異なるのは,記帳が奴隷の仕事であった点である。他の文明,とりわけメソポタミアとブラジルでは大多数の人々が文盲であったこともあり,記録官の地位はかなり高いものであった。ところがローマでは,よく教育を施された奴隷が記帳と小口現金の管理を行う制度が定着していた。
まず,日記帳[xv]に記録し,それを月に一度,勘定毎の出納帳のようなものと,得意先元帳・仕入先元帳のようなものに転記し,さらに年に一度,債権債務一覧表を作成するという高度な帳簿組織をもっていた。また,ささいな取引であれば単に双方の帳簿に記帳することでニ者間の契約が成立した。残念ながら,彼らはワックスを塗った木の板に記帳したため,老朽化が早く,出土した帳簿はほとんど判読できない。
ローマでは,左右対称の帳簿がしばしば出土している。これをもって「複式簿記の萌芽が見られる」とする意見があるが,これは間違いだと私は考える。借方・貸方の概念や資産・負債・純資産・収益・費用という分類がなかったし,財務諸表と言えば債権債務一覧表のみで,損益計算という考えは無く,貸借平均の原則や実在科目と名目科目を組み合わせて記帳するという考えもなかった。それに何より,本章の最後で記述する理由からも,この時代に複式簿記は発生し得なかったのである。
古代会計を四つの文明に区分してみてきたが,それらのまとめとして,ここで考察を加えたい。
本論では,記帳の起源を紀元前四千年としてきたが,その根拠について,ここで整理しておきたい。というのは,古代の会計を研究する先駆的研究者の方の多くは,紀元前五千年以前に記帳が行われていたとしているのである。最も,現在見つかっている,最古の帳簿は紀元前三千五百年のものであり,いずれの論も推論に過ぎないことは,述べておかなければならない。
紀元前五千年以前に記帳が行われていたとする研究者の多くは,国家の成立時期に着目して,論を展開している。メソポタミアにおいて世界最古の組織的政府が紀元前五千年に誕生していたことは既に述べたが,組織的政府が誕生するためには,政府の資産管理手法たる記帳が既に確立ないしは形成されていなければならないため,それに先立つ紀元前五千五百年か紀元前六千年に起源を求めるべきだと言うのである。
しかし,本論においては,そうした多数派の見解をあえて採用しなかった。確かに,紀元前五千年の段階で組織的政府が存在していたのは事実であろう。しかし,初期の政府においては記帳による資産管理が必ずしも必要だったとは断定できないと思うのだ。というのは,少なくとも初期の政府においては,自らの資産を管理する手法として,倉庫を作り,そこに門番を立てておけば事が足りたのではないか。
ところが,時代が進むにつれて,その手法に問題が出てきた。その門番が本当に正しく職務を執行しているか否かの確認が取れなかったのだ。記帳は,こうした社会的困惑と監査に対する社会的要請により創始したのではないだろうか。監査といっても,現代のようなそれではなく,組織のトップが当該組織の資産管理担当者の職務の信頼性・正確性を確認する趣旨のものであったろう。既に見てきたように,どの古代文明にあっても監査の仕組みが存在していたのも,この考えに立てば納得がいく。
もちろん,犯罪からの資産保護や債権・債務の把握も社会からの大きな要請であったろう。しかし,それは「後に利用されるようになった」と考えるべきものであって,当初の発生要因たる要請は「監査」だったのである。
古代社会が,高度な商業上の知識・文明を有していたことは,既に述べた通りであるが,ではなぜ,そこまでの高度な文明を有していながら複式簿記が誕生しなかったのであろうか。
この点を,単に「社会的要請がなかった」と片付けてはならない。現に,彼らは単式簿記で債権・債務を管理するのに,膨大な努力と書類作成・計算を行っていたのだ。
その鍵は,「ゼロ」である。
ゼロは初め,数ではなかった。「危険な数学的属性を備え」 [4]る恐怖の概念であった。「ゼロ」という数のない所に,「0」という記号はなく,「0」という記号のない所に,現在のような記数法は存在しえなかった。
したがって彼らは,底の冪乗毎に記号を作り,同じ記号を幾つも書くことで数を表現していたのである
そのような記数法の中にあっては,複式簿記の誕生に欠かせない,大切な概念が生まれえなかった。それは,「数字の位置が意味を成す」という発想である。
我々が現在,使っている記数法は,左が高い位,右が低い位というように,数字の位置に意味づけが存在する。しかし,彼らの記数法では「どの文字が幾つ書かれているか」ということだけで数の大小を判断するため,字の書かれる位置は問題とされなかった。[xvi]今まで述べてこなかったが,古代社会の帳簿は表の様なものではなく,むしろ文章に近いものがあった。文字の位置が問題とされないところに,「収益は右,費用は左」といった借方・貸方の概念も誕生し得なかったのである。
歴史を語る上で,「もし」というのは禁句ではあるが,もし,彼らがゼロという概念をより早い段階で数として認識していたら,複式簿記は紀元前何十世紀という段階で成立していただろうし,現代の簿記・会計のあり様も違ったものになっていたのかも知れない。
時は巡り,13世紀初頭。
十字軍が中東史に新たな歴史を刻み込んだ,ちょうど同じころ。舞台は欧州である。
1494年。この年を語らずして会計史は語れまい。Luca=Pacioli[xvii]著『Summa de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalita』[xviii]。今に語り継がれ,尚も会計史論者の研究の的となっている,簿記史上の歴史的大作である。この一冊がなかったら,複式簿記が伝播し,普及し,今に伝わることはなかったろう。
本章では,当時の社会がいかなる潮流の中に彼をしてこの一冊を記述せしめたのか,時系列に沿って追いかけてゆくこととしたい。
歴史は繰り返されるとはよく言ったもので,文化の発展が滞る時期には犯罪が横行するものと相場が決まっている。
ローマ帝国の滅亡が480年であることは既に述べが,本論では480年から13世紀初頭までの歴史を記述しなかった。それは,この時代が「暗黒時代」 [2]と呼ばれる文化・文明の停滞期であり,会計の著しい進歩も見られなかったからだ。
しかし,この時代に犯罪が多発したことは会計にも良き刺激となった。犯罪により詐取・強奪された資産額の把握やトラブル時の証拠書類作成といった社会的要請が高まり,簿記を社会に普及させた。
この頃の帳簿には十字架が散見できる。これは,帳簿に虚偽記載がないことを神に誓った証しだった。この十字架があることが,裁判の際に帳簿を証拠書類として採用する条件だった。
しかし,やがて暗黒時代が終わり,社会の治安が改善されるにつれ,十字架も帳簿から姿を消してゆくのである。
ゼロを数として認識した初めは,バビロニアであった。
否,より正確には,ゼロの機能の一部を有する記号を発明したといった方が良いのかもしれない。
バビロニアの数体系は恐ろしく複雑怪奇であった。60の冪乗と60の冪乗をそれぞれ10倍した数とで位取りを行うもので,一般にはnを項数,kを実数とするとき,一般項が となる数列が底しかも60の冪乗すべてを表す記号と,60の冪乗をそれぞれ10倍した数のすべてを表す記号との二つしか記号がなく,その二つを何度も書きならべて数を表わすというものだった。現代を生きる我々からすれば,どうすればそれで生活が成り立つのかと不思議に思ってしまうが,当時の人々にとっては「文句なしで理にかなって」 [4]いたのだ。
しかし,歴史が進むにつれて(至極当然ではあるが),書けるが読めない記数法には問題が生じてきた。そこで,彼らはその位に何も値がないことを示す記号を発明し,数字の位置に意味を見いだしたのである。
本論の領域を逸脱するため,その後のゼロ史を語ることは差し控えるが,やがて,彼らの発明した記号は無の概念と結びつき,「ゼロ」として数の中に組み入れられ,時に軍艦をも止める数として,現代数学・現代物理学の脅威となってゆくのである。[xix]
さて,この期に及んでも,まだ人が数の並びに意味を見いだすには及ばなかった。その位に値がないことを示す記号が生まれても,その用法が熟知され,広く社会に普及しなければ,人々の思考の根柢を形成するには至るべくもなかった。そのためには,まず(十進法で言うところの)1から9までの記号が必要であったし,何よりあの複雑な底の概念から解き放つ必要があった。現に,中世に入っても依然として記帳はローマ数字で行われていたのだ。
1211年。一人の男がその歴史を変えたと言って良かった。レオナルド=フィボナッチ[xx]著『算盤の書』。この一冊によりアラビア数字の加減乗除・分数・平方・幾何・代数に至るまでが初めて体系的に構成された。この快挙により,徐々にではあったがアラビア数字の記数法体系は10を底とする数体系と共に広く欧州へ普及するに至ったのだ。尚,アラビア数字は,記帳においては13世紀後半から徐々に用いられ初め,16世紀前半には広く社会全般に普及した。
これにより,数字の位置が意味をなすという考えが広く人々に根付き,その思考の根柢が形成され,信用取引に係る債権・債務の把握という長年の困惑の解決に向けて,簿記史の駒が進み始めたのである。
13世紀に入るとSector別会計[xxi]がヴェネツィア[xxii]で誕生する。当時のヴェネツィアはヨーロッパの玄関口であった。東洋人が西洋の風を浴びる唯一の場と言って良かったし,また西洋人が東洋から採光する唯一の窓であった。
そこでは様々な商品が行き交ったが,逆に言えばある商人が常に同じ商品ばかりを扱うことは少なかった。今まで見てきたように,資産管理が会計の主たる目的とされていた社会である。会計・帳簿の組織がSector別に細分化してゆくのは時代の必然であった。彼らは東から胡椒が来れば胡椒会計を作り,西からワインが来ればワイン会計を起こした。そして,胡椒が売り切れれば,(売り切れずに半永久的にある商品が手に入り続けるなどあり得なかったから,)胡椒会計単体での利益を計算し,全勘定を締め切った。商品が売り切れる途中で決算が行われることはなく,ある商品の会計を締め切ったからと言って,他の商品の会計と連結されることはなかった。
費用・収益の認識という側面から考えると,この段階においては,「期間に区切る」という考えが無く,利益についても仕入時と売上時のキャッシュの差額として認識されていたため,発生主義と現金主義は同義であった。「会計期間」という考えの無いところに,費用・収益を当期のものとするか,他の期のものとするかといった「識別」 [5]の必要性は生じず,何ら手を加えなくとも費用・収益は自動的に対応したのである。
一方では,企業形態の変化も当時の簿記に影響を与えた。
13世紀までは,企業の構成員は家族の構成員に等しかった。確かに,古代において銀行や大規模商館は存在したが,それは古代社会の中では比較的大規模であったという意味での「大規模商館」に過ぎず,家族のみで十分運用できうる範囲内であった。
ところが時代は巡り,大航海時代を迎えようという時期になると,商業の発達に伴い,企業が更なる業務拡大・事業発展を志向し初め,企業に更なる人手を加えることで大規模化しようという者が現れてきた。マグナ・ソキエタス(期間組合)[xxiii]の誕生である。
期間組合は,13世紀前半から14世紀初頭のフィレンツェ[xxiv]で発生した。それまでの企業(ソキエタス)では,給与は家族への小遣いであり,会社の資産は家財に等しく,利益は家族で山分けすれば良く,そもそも決算の必要がなかった。ところが,期間組合では,そうは行かなくなった。給与は,その人の生活に足る額・その働きに見合う額を,正しく支払う必要があったし,家財と資産は誤たず別会計とせねばならなかったし,何より他人との利益配分[xxv]にはSectorの枠を超えた正確な損益計算・利益算定が求められた。
当時の利益算定は,現代の所謂「資産負債アプローチ」[xxvi]であった。当時の簿記は名宛勘定[xxvii]を主とした資産諸勘定・負債諸勘定のみで構成されており,費用・収益の各諸勘定は存在しなかった。これは,簿記・会計の目的が専ら資産・負債の管理であった為である。従って利益算定に当たっても,彼らは「ヴィランツィオ[xxviii]」 [6]と呼ばれる現代の貸借対照表の様なものを期初・期末に時価評価で作成し,その棚卸高の差をもって利益としていた。当初はそれで良かった。ところが,期間組合の出現・発展と共に,その利益の信頼性に疑問の声が上げられるようになってきた。評価損や棚卸減耗費の詳細はおろか,費用・収益の内訳も一切示されないまま,資産・負債の明細のみを提示されても,納得のゆくはずがない。そこで,その利益に収益費用アプローチからの証明を加えるべく,収益諸勘定・費用諸勘定が生まれ,まだ不定期的ではあったが期間損益計算が始まった。
そこでは,利益が正しいことを示すため,収益費用アプローチで求めた利益に種々の加算・減算を行い,資産負債アプローチからの利益額に一致することを示さなければならなかった。評価損益や棚卸減耗費の計上はもちろんのこと,見越・繰延といった会計期間を意識した決算整理が必要となった。こうして会計は,生まれながらにして発生主義を身につけた[xxix]。14世紀のことである。
企業についてもう一つ,出資に着眼して見てみたい。
資産所有者が他人にその運用を委託し,受託者が運用・管理を行い,委託者に会計報告を行うといった会計を代理人会計という。代理人会計の歴史は古く,その起源は古代ロ−マにまで遡るが,それが出資への発展として会計に大きなインパクトを与えるのは16世紀になってからであった。
ここでは,一旦,古代ローマの代理人会計に触れた上で,16世紀の会計の変革を見てゆくことにしたい。
古代ローマにおいて,奴隷が小口現金を管理していたことは既に述べたが,それこそが代理人会計であり,出資の概念はその発展の末に生まれたと言えるだろう。
初期の会計の委託・受託関係の中では,受託者は資産運用,分けても現金の管理に慎重になった。万が一にも帳簿残高と実際の有高に差額が生じれば,委託者から説明を求められ,責任を追及されるのである。
従って,古代ローマの小口現金管理でも現金については厳重な記帳・管理が行われた。彼らは「主人勘定」 [7]を開設し,主人・奴隷間の金銭等の授受は奴隷の手により現金勘定・主人勘定の双方に記帳された。
やがて,時の流れと共に奴隷の扱う資産運用の幅は広がって行き,利子を付けて資産を貸出したり,商品の売買を行ったりと,その幅は小口現金の域を完全に脱していた。その期に及んで奴隷は商人へと,その立場を変え,主人は出資者たる貴族へと変容した。主人勘定が資本金勘定へと進化を遂げるのも,時間の問題だった。
16世紀になると,企業はさらに進化を遂げ,全国に支店を持つに至った。この時,いくつかの企業は各店舗を本支店会計で繋がず,独立採算制を敷いた。
本店で修業を積み,やがてトップに認められると,開店資金が支給され,支店の開設が認められた。その後は,一年毎の本店への財務報告・利益配分が課せられた他,一切の経営は任された。
さらに,その業績が良好であった場合には,開業資金が与えられ,のれん分けが認められた。のれん分けの後も,財務報告と利益配分は科せられた。
さらに,時代が進むと,完全なる他者資本も介入するようになり,出資の証拠書類として「株式」が誕生した。
こうして定期総括的損益計算[xxx]と出資の概念は誕生した。
サンセポルクロに生まれた男に,迷いはなかった。元々数学者であった彼は,アラビア数字にも慣れ親しんでいた。幼い頃,商人の家に奉公した経験からか,簿記を語ることに何の抵抗も感じなかった。15世紀の半ばに活版印刷が発明されたことも,彼を後押ししたに違いない。彼は成した。49歳,5作目にして彼の主著,スンマの完成[xxxi]であった。
その後の歴史についても,触れておかねばなるまい。
「大人になるってことは,近づいたり離れたりを繰り返して,お互いがあまり傷つかずに済む距離を見つけ出すってこと」 [8]葛城ミサトの台詞である。
会計の歴史も,正に近づいたり離れたりであった。
業務の効率化から日記帳が仕訳帳に統合された一方,リアルタイムな財務状況の把握の為に試算表・清算表が生まれ,元帳と決算書の間に距離が生まれた。
名宛勘定が消失し,資産・負債の諸勘定へ統合されたかと思えば,債権・債務の把握に駆られ補助簿が誕生する。
三分法[xxxii]の成立過程は特におもしろい。当初は,商品毎に各資産勘定(胡椒勘定・パン勘定など)が作成されていたが,18世紀後半から雑商品勘定が生まれ,雑多な商品がそこにまとめられた。現在の雑費や消耗品費のようなものだ。次第に雑商品として扱われる商品が増加して行き,ついに19世紀前半,商品勘定(資産)で一本化される。ここまでが”近づき”の歴史である。ところが20世紀に入ると企業の肥大化に伴って,企業の経理を一人の担当者が全て賄うことが不可能となり,仕入係・売上係といった役割分担と共に,商品勘定にも仕入勘定・売上勘定に分かれることが要請され,やがて決算法の進展と共に繰越商品勘定が誕生,三分法が成立に至ったのである。
太陽の塔を建てた男は言った。「芸術は,爆発だ。」
20世紀以降の会計は,爆発である。
広く一般には,1986年10月27日のイギリス金融ビッグバンに端を発するとされているが,正確な時系列に基づけばその起源は20世紀中盤まで遡る。
企業会計審議会(後に企業会計基準委員会)の誕生と,企業会計原則や種々の会計基準の策定。独占禁止法の改正はコングロマリットや,連結決算・連結納税制度を発生させ,保守主義は,引当金・減価償却・減損会計といった考え方を生み,キャッシュの変化と利益額との間に差異をもたらし,キャッシュフロー計算書を発生せしめ,現金主義を誕生させた。
世界に目を向ければ,米国33年法・34年法の制定,SECの誕生とFAF・FASAC・FASBのトライアングル体制の成立。グローバル化とIASCによるIAS(後にIASBによるIFRS)の誕生。
問い続けたのは,一般に公正妥当と認められた会計基準及び原則とはどうあるべきか。全ては,Stakeholderの為であった。
本論が,社会的要請に着目して会計の歴史を見つめるものである限り,20世紀以降の会計を語ることは,もはや主題の外である。
会計の歩みを見つめることは,とても意義深かった。現金主義から発生主義,収益費用アプローチから資産負債アプローチ,取得原価主義から時価会計へと言った巷間で言われる会計の流れが,歴史的には全て逆の進化をたどったものであったとは,おもしろい。
アメリカ発の大津波が,世界経済を激震へ陥れしている。今,会計には何が求められているのか,否,会計に何が出来うるだろうか。考察を加えなければならない。
恐慌は,何故起こるのか。バブルの崩壊である。バブルは何故発生するのか。人々が時勢を読めないためである。バブルの最中に今がバブルだと断言できる者はいないはずだ。なぜなら,誰かがそれに気づいた瞬間をもって,バブルがはじけるからだ。
あの世界恐慌でさえ,そうであったように,往々にして恐慌は中長期的要因に誘発される。今回の恐慌も例に漏れなかった。サブプライムローンとは,一般の住宅ローン(プライムローン)の融資を受けられない低信用力の人に住宅ローンを貸し付ける商品で,借入から一定期間の返済額を減額する代わりに,その後の返済額を増額するというものだった。本来なら,この商品が台頭してきた時点で,市場は気づくべきであった。「一定期間の返済額を減額」してもらわねば返済できないような人が,「その後の返済額を増額」されて,返済が滞らないはずがない。金融機関が多額の不良債権を抱えることは予想できたはずである。やがて2008年夏,サブプライムローンの焦付きが明らかになり,ファニーメイ・フレディマックが合衆国政府の公的管理下に入ったのが同年9月7日,リーマンブラザーズの破綻が同月15日であった。
このバブル崩壊が世界経済へ領域を拡大した背景には,ローンが証券化されていたことが挙げられる。銀行は貸出しを行うやいなや,すぐさま証券化し売却。売却先金融機関でも,様々な金融商品と共にポートフォリオが組まれ,転売される。さらには転売先でもポートフォリオに組み入れられるに至り,その繰り返しが実態を見えなくした。複雑化した金融商品の全体を把握することは既に不可能であったから,末端の金融商品購入者にとって,当該商品は金を生むブラックボックスに過ぎなかった。
会計の本質が,「経済的情報」 [5]を「伝達」 [5]し「事情に精通」 [5]せしめることにあるのなら,それこそ会計の担うべき社会的責任ではないか。貸出しを行った銀行と,末端の金融商品購入者とを繋ぐ情報チャンネル,Accessibilityの整備である。企業の資産たる債権が,いかなる回収可能性・収益性を保有しているかといった情報を「経済的情報」 [5]と呼ばずに何と呼ぼう。思えば,資産管理や債権・債務の管理は会計の古くからのテーマではなかったか。
そのためには,貨幣以外に,もう一つの単位が必要となるだろう。いわば,リスク頻度の数値化である。種々の資産を別々に管理した古代会計から,単位が貨幣に統一されるに至る「近づきの歴史」と,金融資産の管理に駆られて新たな単位が誕生する「離れの歴史」である。我々は今,その転換点に立たされているのかもしれない。
リスク頻度の数値化と財務諸表という観点から,もう一点述べておきたい。近年,世界的台頭の著しい資産負債アプローチについてである。私は,これを過去への回帰より,むしろ新たなる進化だと考えている。
既に述べたように,そもそも損益計算は,資産負債アプローチから求めた利益額が正しいことを証明するためのものとして誕生した。従って,そこでは二つのアプローチから求めた利益が正確に一致することが求められた。
しかし,今の会計はどうか。評価損益計上のタイミングが議論されたり,繰延資産・引当金と言った,資産・負債ならざる資産・負債が誕生したりと,種々の問題が山積し,必ずしもその二つは一致していないのが現状である。特に,我が国ではその傾向が著しく,「純利益」の名の下に繰延ヘッジ損益や土地再評価差額金が直接純資産へ繰り入れられる会計を,みのがして良いはずがない。
六千年の会計史の大部分で人が追い求めてきたものは時価による資産・負債の適正な把握・管理であった。そこでは,何にも増して資産・負債が会計上の最重要項目であったはずだ。ところがこの百年の会計を見ると,六千年もの永きにわたる歴史を踏みにじり,収益・費用を重視し,追い求めるあまり,実在科目であるはずの資産・負債に名目的要素を持ち込むまでに至ってしまった。14世紀の会計が全て時価会計であったことを考慮しても,包括利益の方が適正かつ妥当では無いだろうか。永く,資産・負債や債権・債務の管理手法だったはず会計が,資産・負債ならざる資産・負債を生み出すなど,もはや狂気と言わざるを得ない。
しかし一方では,売却予定のない資産を時価評価することへの抵抗もあるだろう。そこで,使われるのが前述のリスク頻度の数値化である。リスクアセスメントの中で,資産売却時の差損について正しく洗い出し,そのリスク頻度を正確に数値化することが出来れば,評価損益が現実的なものとなるか否かも含めて財務報告書に明記することが出来るため,そうした抵抗・懸念も抑えられるのでは無いだろうか。
20世紀以降の会計は,「利益」ということにこだわりすぎて,あるべき会計の姿を見失ってしまったのでは無いだろうか。今こそ舵を切り直し,本来のあるべき歴史的発展を志向することこそ,会計に求められる社会的要請では無いだろうか。
読者諸氏は,気づいているのだろうか。私は,「複式簿記の”完成”」という言葉を,一度として使ってこなかった。簿記の創始から六千年。うち,期間損益計算が誕生してから五百年。会計基準・会計原則が話題となってから,まだ百年しか経っていない。この期にあたっては,簿記・会計の完成など論じうるべくもない。
この六千年,人は文化・文明の中に生きてきた。文化・文明の中の経済であり,文化・文明の中の会計であった。しかし,その流れにも変化が現れるかも知れない。地球環境保護の立場から,単に経済的豊かさのみを求める社会からの脱却が求められている。会計が「経済的情報」 [5]を扱うものである限り,経済の変化は会計の変化である。
古代より,文明の歴史は会計と共にあった。会計は,今後も永久に進化を続けるだろう。百年後,千年後の「地球に優しい経済」がどんなものか,今を生きる我々には知る由もないが,その時の会計の姿は,少し見てみたくもある。
最後になってしまったが,本論の記述にあたり種々の助言を賜ると共に,何より私の心の支えとなってくれた中京大学会計学研究会の親愛なる同志に深甚なる謝辞を啓し,六千年に渡るTheoryに幕を閉じることとしたい。
平成21年5月
輝かしき陽光に乗せて者諸氏へ捧ぐ
山内啓示
1. 濱田弘作. 会計史研究序説. 千代田区 : 多賀出版株式会社, 1983. ISBN:4-8115-2094-7.
2. ArthurH.Woolf. ウルフ会計史. (訳) 片岡義雄 , 片岡泰彦. 港区 : 財団法人法政大学出版局, 1977. 本書は,A Short History of Accountants and Accountancyの邦訳である。. ISBN:978-4588655029.
3. MichaelChatfield. 会計思想史. (訳) 津田正晃 , 加藤順介. 新宿区 : 株式会社文眞堂, 1978. 本書は"History of Accounting Thought"の邦訳である。. ISBN:978-4-8309-3922-8.
4. CharlesSaife. 異端の数ゼロ. (訳) 林大. 千代田区 : 早川書房, 2003. 本書は,ZERO:The Biography of a Dangerous Idea の邦訳である。. ISBN:4-15-208524-X.
5. アメリカ会計学会(American Accounting Association,AAA). 基礎的会計理論. (訳) 飯野利夫. 東京 : 国元書房, 1969. 第 1 巻, 本書は,1966年アメリカ会計学会発行のASOBAT(A Statement of Basic Accounting Theory)の邦訳である。尚,本書の中で,会計について「情報の利用者が判断や意思決定を行うにあたって,事情に精通したうえでそれができるように,経済的情報を識別し,測定し,伝達する過程である」と定義されており,本論における会計の定義も,これに従うものである。. ISBN:4765805042 / NBN:JP70013810.
6. 渡邉泉. 歴史から学ぶ会計. 初版. 千代田区 : 同文館出版株式会社, 2008. ISBN:978-4-495-19101-6.
7. 岸悦三. 会計前史〔増補版〕―パチョーリ簿記論の解明―. 千代田区 : 同文館出版, 1990. 本書には、第一部第四章で、資料として、Luca=Pacioli著のSumma de Arithmetica, Geometria, Proportioni et Proportionalitaの著者による全訳(邦訳)が所収されている。. ISBN:4-495-13182-6.
8. 庵野秀明. 新世紀エヴァンゲリオン. (TVアニメーション). (出演/演奏:) 緒方恵美, ほか. (プロデュース) 大月俊倫 , Eva.Project. テレビ東京・NAS・GAINAX・タツノコプロ・鷺巣詩郎・山下いくと・庵野秀明; テレビ東京, 1995-1996. 尚,原作・漫画は貞本義行・GAINAX・カラー・角川書店による。.
9. BrownRichard. A History of Accounting and Accountants. 出版地不明 : Cosimo Classics, 2005. ISBN:978-1596050846.
10. Edmund, Robertson F and John, O'Connor J. Mathematics in Egyptian Papyri. The MacTutor History of Mathematics archive. [Online] University of St Andrews, 12 2000. [Cited: 4 19, 2009.] http://www-groups.dcs.st-andrews.ac.uk/~history/HistTopics/Egyptian_papyri.html.
11. ホルストクレンゲル. 古代バビロニアの歴史 ―ハンムラビ王とその社会―. (訳) 江上波夫 , 五味亭. 千代田区 : 株式会社山川出版社, 1980. 本書は,Hammurapi von Babylon und seine Zeitの邦訳である。. ASIN:B000J89KMC.
12. 室井和男. バビロニアの数学. 文京区 : 東京大学出版会, 2000. ISBN:4-13-061302-2.
[ii] メソポタミア文明の中心は,時代と共に南から北へ遷移した。政府の成立はシュメールにおいてであったが,少なくとも紀元前二千年頃には,文化の中心はバビロニアに移っていたとされる。
[iii] エジビ兄弟商会・ムラシュ兄弟商会
[iv] 当時の単式簿記は,現代のそれと異なり,資産・負債の増減のみを記帳するもので,損益計算という考えはなかった。
[v] 底とは,数学用語で何かの基準となる数のことである。現代数学における正確な説明には,指数・対数についての理解を要するが,ここでは「何進法を採用していたか」といったニュアンスで捉えていただきたい。
[vi] バビロニアのハンムラビ王により流布された法典で,イスラム教の源流とされる。ウルナンム法典に次ぎ,現存するものとしては二番目に古い法典。「目には目を,歯には歯を」の記述は特に有名で,映画『新世紀エヴァンゲリオン 劇場版 THE END OF EVANGELION まごころを、君に』の中のゼーレの台詞「やはり,毒は同じ毒をもって制せねばならぬか」は,この記述から来るものとされる。
[vii] ピラミッドとは,古代エジプト人の王族の墓とされる,四角錐形の巨大建造物である。ギザの三大ピラミッドなどは特に有名。2009年4月現在,118基が発見されている。
[viii] パピルス紙は,パピルスと呼ばれる植物の茎の髓から作られた紙。古代エジプト文明にて多用された。パピルスはアフリカに原生するカヤツリグサ科の水草。観賞用に自宅で飼われる場合もあるが,寒さに弱いため冬場は室内に入れなければならない。
[ix] ギリシャ神話は,古代ギリシャの人々の間に伝わる神話・伝説を大成した物語である。
[x] 全28種に及んだ。
[xi] 取引を日記帳に記録し,出納帳へ転記するというもの。
[xii] 王制とは,君主制の一種で,政権が国王に集中する政治形態である。
[xiii] 共和制とは,複数の人々に主権・政権が与えられる政治制度であるが,国民の全てに主権が認められるとは限らない。古代ギリシャでは,貴族にのみ主権が認められた。尚,(この点については二章五節一項でも触れるが,)共和制ギリシャでは貴族は商業を営むことは禁じられていた。
[xiv] 帝政は,君主制の一種で,皇帝に政権が集中する政治形態である。領土拡大を重視する場合が多く,戦争に備えるための中央集権国家としての性格が強いことが多い。古代ローマに敷かれた帝政は,第一次世界大戦前のヨーロッパでモデルとして採用された。
[xv] ギリシャにおけるそれにも同様のことが言えるが,当時の日記帳は,現代の仕訳日記帳とは大きく異なり,カレンダーのようなものに取引毎のメモを記したもので,18世紀初頭まで広く用いられた。
[xvi] 現代のローマ数字では文字の位置が問題とされるが,当時のローマ数字では左側に文字を書くことで減算されるルールが存在しなかったため,文字の位置は問題とされなかった。
[xvii] Luca=Pacioli(1445-1517)。サンセポルクロに生まれ,中世ヨーロッパを生きた数学者。16歳にして同郷の画家(当時の画家は数学的思考に優れていることが求められていた)に数学的才能を見込まれ,19歳から6年間,ヴェネツィアの商人(当時,商業には数学的能力を要した)に奉公に出る。25歳にして初の数学書を著し,生涯5作品を残した。晩年はローマ法王からもその才能が認められ,ローマ大学教授への抜擢を受けた。尚,レオナルド・ダ・ヴィンチとも親交が深かったとされる。
[xviii] 直訳は,『算術・幾何・比および比例に関する総覧』であるが,『複式簿記全書』などと意訳される場合もある。複式簿記が詳細にわたり体系的に記述された書物としては世界最古。「スンマ」の愛称で知られる。
[xix] 詳細は,チャールズ=サイフェ氏著,林大氏訳の『異端の数ゼロ』を参照されたい。
[xx] レオナルド=フィリオ=ボナッチ(Leonardo=Pisano=Fibonacci,)。「中性一の才能」と称されるイタリアの数学者。「フィボナッチ数列」などで知られる。
[xxi] 現在の部門別会計と類似しているが,歴史的に連続性を持つものではない。当時のSector別会計は,Sector毎に会計自体が別々に分かれていた上,それらは連結されず,完全な独立採算制であった。また,同じ商品でも仕入値・売値が異なれば別会計とされた。現金勘定・名宛勘定なども会計毎に別々に設けられた。
[xxii] Venezia,またの名をヴェニス。イタリア北部の港町。
[xxiii]同族のみで形成された組織を核としつつ,三から五年の期間に区切って同族以外の者を企業に参画させるものだった。
[xxiv] Firenze。イタリア北中部の都市。
[xxv] マグナ・ソキエタスでは決算毎に同族以外の企業参画者へ利益配当が行われた。
[xxvi] 資産負債アプローチとは,期首純資産高と期末純資産高の差額をもって利益とする考え方。一般には1976年12月2日にFASB(Financial Accounting Standard Board,米国の会計基準設定主体)が討議資料として公開した財務諸表の概念フレームワークの中で提示した利益観とされているが,(歴史的連続性は認められないものの,)実質的発生は当時のヨーロッパに見られる。
[xxvii] 所謂人名勘定。債権・債務の発生時に,相手先名の勘定科目を設定する記帳法。
[xxviii] イタリア語でバランスの意。
[xxix] 費用・収益の認識について,現金主義が発生主義に先行して発生したとする歴史観は誤りである。古代より,債権・債務の把握・管理が会計の役割であったことは既に述べたが,その流れから考えても発生時点をもって費用・収益を認識し,買掛金・売掛金などの資産・負債を計上したと考えるのは極めて自然である。尚,上述のような間違った歴史観が普及した背景としては,黒沢清氏著の『近代會計學』(1951,春秋社)と,山下勝治氏著の『會計學の一般理論』の中で「Sector別会計では現金主義がとられたが,マグナ・ソキエタスの台頭と共に発生主義へ変化した」とする誤った仮説が立てられ,それが普及したことによると考えられる。しかし,既に述べたように,Sector別会計では費用・収益を識別する必要が無かったため,現金主義か発生主義かを語る次元に無いのである。尚,現金主義は19世紀に入ってから,キャッシュフロー計算書の発生過程で誕生する。
[xxx] ここで,定期的とは決算を定期的に行う意。総括的とはSectorを超えた損益計算を行う意。
[xxxi] Pacioliは,記述されていなかった複式簿記を大成し,体系的に構成したに過ぎず,複式簿記を発明したわけではない。これは,自身も認めており,スンマの中で「複式簿記の祖ではない」と記述している。
[xxxii] 仕入・売上・繰越商品の三勘定で商品の管理を行う記帳法。詳述は差し控える。